邪馬台国畿内説は無理があるよな | おっちゃんねる

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邪馬台国畿内説は無理があるよな

2022年06月16日
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9. 名無しのおっちゃん

2022年06月17日 12時50分 ID:5505c48c08 (1/4) ID抽出 返信

>>8
金印の真贋で恐らく貴方は偽物だと思っているのだろうから、
金印に何が刻まれていようと貴方の説からは関係がないはず。
また「委奴」についても「伊都国」という単一の国を示している、
そう考える意見もあるわけであって、
「民族+国名」が不自然であるならそう受け取ることもできます。

そして九州北部に大規模な集落があったという史跡、
例えば吉野ケ里遺跡などがありますが、
朝鮮半島ではこういった史跡の存在は知られていません。
なので現状では朝鮮半島に「委奴国」と比定できる土地がないのです。

さらにですが、仮に金印が偽物だったとしても後漢書の記述がある以上、
「委奴国」というのが日本にあったということの方が、
朝鮮半島にあったという説より信憑性があるわけです。
「金印が偽物=後漢書がウソ」という話ではないからです。

長くなりましたが、続きます。
連投失礼します。

10. 名無しのおっちゃん

2022年06月17日 13時01分 ID:5505c48c08 (2/4) ID抽出 返信

それから朝鮮半島委奴国説に関して考えてみましたが、
例えばイギリスはかつてインドを支配しており、
そのインドの方が本土より広大で人口も上回っていますが、
歴史上「イギリスはアラブの東南に位置する」とはされません。

つまり「極南界」と表記しているのは、
そこが中心であるという意味に外ならず、
貴方のおっしゃるように志賀島が「極南界」であるなら、
その地点より北方を支配しているか、
単純にすごく南方にあるかといった意味であり、
なおかつそこが中心となっているという論説になるわけです。
あくまで国の位置とは内外の事態に対する決定権を有する機関が、
どこに位置するかで論ずるものだからです。

また印綬をそのように扱うことは「ない」です。
あくまで正式な外交交渉の場であったり、
あるいは内乱などが起こった際の「正統性」を主張するものです。
なので持ち出された可能性は否定できませんが、
元々そこにあった可能性も同時に否定できません。

印綬はそれ自体が皇帝の権威を象徴するものなので、
軽々しく扱えるとすればそれは発行した皇帝の権威が失墜したか、
あるいは皇帝への反逆を企てている場合になります。
商人が物珍しさで見せびらかすようなものではありません。

12. 名無しのおっちゃん

2022年06月17日 14時37分 ID:5505c48c08 (3/4) ID抽出 返信

>>11
なので吉野ケ里遺跡の例を出しているわけです。
客観的に見て「当時日本の九州北部にそれなりの国家があった」という推測と、
それが委奴国なり奴国なり、漢に朝貢できる大きさのものだった、
という推測は別段矛盾しません。
一方朝鮮半島には吉野ケ里遺跡に類する史跡がありません。

そして仮に朝鮮半島からの使者であれば楽浪郡を経由するはずですので、
後漢書では「楽浪の東なり」そういった記載になるはずです。
わざわざ「極南界」などと言う必要がないわけです。
つまり委奴国は朝鮮半島にはなかったと考えた方が自然です。

そして広開土王碑文、三国史記いずれも倭国の侵攻記事についてですが、
391年の出来事として明確に「倭が侵略し(諸国を)臣民とした」とあります。
元々倭が朝鮮半島にあったのであれば、
新羅、百済、任那、伽耶などと同列に名前が出るはずですが、
突然「侵略者」として出てくるということは外から来たのでしょう。
少なくとも4世紀には倭は日本にあることになります。

1世紀頃には史記の平準書、漢書の食貨志というような文献が残されており、
当時の風習や職制、はたまた文化史に当たる記載が豊富にあります。
印綬をそのように用いるというような記載はないです。
当時信奉されていた儒教の概念からしても甚だ不遜なことに当たります。

14. 名無しのおっちゃん

2022年06月17日 16時36分 ID:5505c48c08 (4/4) ID抽出 返信

朝鮮半島南西部の史跡は5世紀~6世紀のものだと、
地元韓国の学者の方々が推測されております。
つまり1世紀には存在しておりません。
なので委奴国が朝鮮半島になかった証拠にこそなるものの、
あった証拠には使えません。

なお吉野ケ里遺跡は「縄文以降」ですので、
ちょうど後漢書が指す時期にも存在したことになります。
また楽浪郡は朝鮮半島北西部でしょうから、
「極南界」の表記と矛盾します。

現楽浪郡にある当時の史跡は恐らく楽浪郡そのものでしょう。
というのも木簡などが出土しているからです。
当時朝鮮半島にも日本列島にも文字を使う文化は存在しなかったので、
それは漢の役所があった可能性が高いということです。
そうでなければ「委奴国は楽浪郡である」と記載するだけですので。
つまり楽浪郡に史跡があるということは当然であり、
それが委奴国とは違うものであることも明白です。

後半に関してですが、
正直なところそれらが「委奴国が日本になかった」という話に、
どうつながるのかがわかりませんでした。
また「朝鮮半島にあった」という話にも関係しないかと思われます。

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