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11. 名無しのおっちゃん

2022年06月17日 14時02分 ID:0ad6ddc478 (2/3) ID抽出 返信

>>9 「金印が偽物=後漢書がウソ」という話ではないとして、それが「委奴国」というのが日本列島にあったとの根拠にはならないでしょう。
時代を下って、4~5世紀前半の広開土王陵碑・三国史記新羅本紀には倭国の侵攻記事が頻繁に有り、5方向から侵入した記録も有ります。 倭は朝鮮半島にあったと仮定する方が、三国史記の記述は自然です。
>>10
当時の政治風習が中世近現代と同一と証明できない以上、根拠は薄いでしょうが、辺境伯が皇帝や王に賜った品を「交易を含む外交交渉」につかうことはありますよね。
そして「交易」としたのはその当時の日本列島在民が「外交交渉」の相手先なのかということでもあります。


12. 名無しのおっちゃん

2022年06月17日 14時37分 ID:5505c48c08 (3/4) ID抽出 返信

>>11
なので吉野ケ里遺跡の例を出しているわけです。
客観的に見て「当時日本の九州北部にそれなりの国家があった」という推測と、
それが委奴国なり奴国なり、漢に朝貢できる大きさのものだった、
という推測は別段矛盾しません。
一方朝鮮半島には吉野ケ里遺跡に類する史跡がありません。

そして仮に朝鮮半島からの使者であれば楽浪郡を経由するはずですので、
後漢書では「楽浪の東なり」そういった記載になるはずです。
わざわざ「極南界」などと言う必要がないわけです。
つまり委奴国は朝鮮半島にはなかったと考えた方が自然です。

そして広開土王碑文、三国史記いずれも倭国の侵攻記事についてですが、
391年の出来事として明確に「倭が侵略し(諸国を)臣民とした」とあります。
元々倭が朝鮮半島にあったのであれば、
新羅、百済、任那、伽耶などと同列に名前が出るはずですが、
突然「侵略者」として出てくるということは外から来たのでしょう。
少なくとも4世紀には倭は日本にあることになります。

1世紀頃には史記の平準書、漢書の食貨志というような文献が残されており、
当時の風習や職制、はたまた文化史に当たる記載が豊富にあります。
印綬をそのように用いるというような記載はないです。
当時信奉されていた儒教の概念からしても甚だ不遜なことに当たります。

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