
1869年に明治天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」という読みにくい名前の詔勅を発しました
内容は
明治天皇が江戸へ移動し政務を行う
江戸府を東京府へ改名する
の2点でした
これに合わせて江戸城は東京城と改称されましたが、
その後も皇城、宮城と改称は続き
二次大戦後は皇居となりました
東京府はその後色々あって周辺地域の吸収を以下のように繰り返します
◆明治元年に武蔵国(現在の東京埼玉横浜川崎のあたり)の一部を江戸府とし、その後すぐに東京府へ改名
◆明治4年に廃藩置県により東京府廃止、その後すぐに周辺地域を集めて東京府を再設置
◆明治13年に伊豆諸島、小笠原諸島を編入
◆明治22年に東京府東部地域を集めて東京市を設立し15区に分割
◆明治26年に神奈川県の三多摩郡を東京市に移管
◆昭和7年に周辺地域を集めて東京市を35区にする
◆昭和18年に東京府と東京市を統合して東京都を設立
何らかの意図はあったのでしょうが、なかなかによくわからん歴史ですね
ちなみに、ヒカルの碁で有名になった本因坊秀策の命日でもあります
>何らかの意図
東京の区分に関して明治期にこのような紆余曲折があったのは、
まず行政区分をどう定めるかが決まっていなかったが故。
これは新政府が薩長を中心とした諸藩の勢力であり、
互いに利害関係が生じていたことが大きい。
なので当初は元々あった藩を基準に、
3府302県という膨大な府県が設置されてしまっていた。
これを統廃合していく流れは東京近辺でも当然起こった。
また皇居に関しては令和4年現在でも
「天皇の正式な居場所は京都である」
と主張し、日本の首都は京都だと言っている人たちがいる。
これはまるっきりな妄言でもなく、
正式に「遷都の詔」が出ておらず、
法律的に今上陛下の住居の所在が明確に定められていないため。
明治に入り天皇は京都から東京に「東幸」し、
そのまま東京にとどまることになるのだが、
この天皇の転居が「行幸」つまり一時的なものなのか、
正真正銘の「遷都」なのか明文化、明言されていない。
それは京都側に対する配慮が必要だったため。
なのでこの時に使われた単語は「奠都(てんと)」であり、
あくまで「(行政の中枢たる)都を移した」とされている。
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