
動作を伴なわない認識であっても常識ではある。
「八百屋のあの店先に並んでる果物、リンゴって言うらしいぞ」
「そんなの常識だろ」
という会話が成り立つのは、
「普通はこうする」という動作を伴なわずとも、
「みんな知っているだろう」という認識の領域の話だろう。
一方で「常識的」というと行為や結果を伴ないやすい。
「常識的な行動を求めます」と言う場合は、
単に認識だけでなく行為と結果に亘る行動そのものを指定している。
同時に認識だけを指して「常識的」と言うケースもあり、
「あの八百屋の店先の果物はなんだろう」
「常識的に考えてリンゴだろ」
という会話も成立する。
ただ、思うに日本語として「的」であるとか「性」というのは、
多くの場合婉曲表現の一環であって、
そこに名詞を形容動詞化するなどの役割のほか、
「常識」と「常識的」に文脈上の意味の違いはないように思う。
つまり、常識であれ常識的であれ、
「こうするよね」という動作を伴なう判断だけに限らず、
「一般的にこうだろう」という主観的な類推全般を指していると思うが、
ブッダとしてはどうだろう。
勝ち負けにこだわっていないなら老子みたいに、
「君が私を羊と思うんならそうだろう」でいいわけだし。
君の意見は私と違う、私はこう思う、
と敢えて言うのはやはり正誤について譲れない部分があって、
だから争ったし、その正しさについては優劣や勝敗が伴うと思う。
肝心なのは争った記録が残っていることであって、
勝敗にこだわったかどうかではないとは確かに思うが、
自分で>>11でも書いている通り、
>挑まれた勝負には負けるわけにはいかない
なら勝負はしてるし勝敗にもこだわっている視点になるぞ。
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